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朱 之宇さんの病院ボランティアインタビュー写真

小児がんは年間2000〜3000人と低い発症率のため、小児がんになった若者達ならではの悩みや問題点が日の目を浴びる機会は限られています。そこで今回は中学校2年生で悪性リンパ腫を発症した朱さんに、「発症してから病気と勉強、病気と仕事を両立することの難しさ」「小児慢性患者の20歳の壁」「若年性がん患者の会 STANDUPについて」、そして「病院ボランティアの意義」について話を伺いました。

悪性リンパ腫と診断されて ー中学2年生から3年生ー

朱さんが中学2年で「悪性リンパ腫」になった経緯を教えてください。

2002年4月中学2年生にあがったばかりの頃、鼻血が頻繁に出たり、ちょっとぶつけただけでアザができるなど、いつもと違う体調不良を感じました。近所の病院で採血検査したところ数値の異常が見つかり、2002年8月に国立国際医療研究センターに検査入院したところ「悪性リンパ腫」と診断され、そこから約1年3ヶ月のあいだ化学療法を行いました。

入院や化学療法をすることを知らされた時、どんな気持ちでしたか?

病気になった不安やショックよりも学校にいけなくなることへのショックが大きかったですね。実は入院したばかりの時、両親の希望で私自身には病名が明かされていませんでした。退院後、ひょんなことから自分の病名を知ることになり「悪性リンパ腫」だと病名がはっきりした時も大きな衝撃はなく、逆に両親が自分に気を使っていることを知り「気にしなくていいよ」と伝えたことを覚えています。

抗がん剤治療による副作用はどんなものがありましたか?

脱毛や皮膚粘膜の炎症、そして吐き気に苦しみました。体が起こせないほど辛い時もあり、そんな時はひたすら時間が過ぎるのを待つだけでした。

入院中に医療従事者や家族以外の方との接点はありましたか?

友達や担任の先生から気遣い言葉や学校の近況についてメールでやり取りしていました。ちょっとしたことでも連絡してくれると、学校にいけない不安を掻き消してくれて心の支えになっていました。
また、病院ボランティアとして学生や主婦の方が週に1回ほど病室に訪問して一緒にオセロなどゲームをしながら世間話をしていました。
そのほかの接点としては、入院中は院内学級に転入していたので養護学校の先生が週に2、3回(2時間/回)病室訪問して勉強を教えてもらっていました。

朱 之宇さんの病院ボランティアインタビュー写真

病気が進学に与える影響〜中3の高校受験追い込みシーズンに復学〜

学校にいけない期間が約1年3ヶ月あったことで、進学にどのように影響がありましたか?

退院した時が中学3年生の12月で、ちょうど進路や高校受験の追い込みシーズンでした。入院していた間は普通の学校には通えていませんので成績表はつけてもらえませんでした。通知表も白紙です。そのため推薦入試はあきらめるしかありませんでした。
また、院内学級は病児数に対して先生の数が限られたため、国語・英語・数学の3教科しか勉強できませんでした。高校の一般入試はその3教科に加えて社会と理科があるため、結果的に一般入試を受験することも諦めなければいけませんでした。
残された選択肢は「定時制高校を受験する」しかなく、長期間入院することが進学にどれだけ影響を与えるのか身をもって痛感することになりました。

院内学級での勉強時間がもっと増えれば・・・と思うことはありましたか?

入院当時は「もっと回数が多いといいな」「もっと長い時間一緒に勉強できればいいな」と感じていました。院内学級は、免疫力が下がっている病児にとって「病院を離れずに授業を受けることができる」「分からない部分もマンツーマンで教えてもらえる」というメリットを持っています。そのため、院内学級での学習時間が増えれば、私のように進路の選択肢が狭められてしまう・・・というケースも減ってくるかもしれません。

現状、病児がいるすべての病院に院内学級があるわけではなく、環境によっては病院が院内学級を受け入れることが難しいという話も聞きます。それは、「病院は医療を行う場」であり、学習支援といった「生活の場」のフォローまで手が届かないという「医療現場の課題」を浮き彫りにしていると思います。

そういった背景もあるので「マンツーマンでの学習指導」が理想ですが、最近スマートフォンやタブレットを持つことが当たり前の時代であることをうまく利用した学習支援サポートがあるといいかもしれませんね。

悪性リンパ腫の情報収集方法や医師への質問について

悪性リンパ腫についてどのように情報収集しましたか?

ネットを使って自分が服用している薬について調べたり、図書館で医学書を読むようにしていました。またTVからの情報も役に立っていました。健康番組で悪性リンパ腫などの特番が組まれている時はチェックしていましたし、ちょうどその頃、白血病や難病をテーマにしたドラマなど自分の病気や病状と重なる部分もあったので、そこからも自然と病気に関する情報が入っていたと思います。

ネットや本、TVなどから得られない「病気や治療法に対しての疑問点」はどのように解決されていましたか?

積極的に医師に質問していました。「副作用が続いて通常の生活が送れなかったらどうしよう」という不安があった時は、テレビやネットで得た情報を元に医師に積極的に質問していた記憶があります。

具体的には、晩期障害(抗がん剤治療後の影響で退院した後にも副作用が出ること)について不安を感じていた時は、「晩期障害で高血圧や偏頭痛になるという記事があったんですが、治療が終わった後に私はそういった症状がでないですか?」と医師に率直に質問をしたことがありました。医師からは「自分で調べてみたんだね、今使用している薬の量はこれぐらいだから晩期障害はでないよ」と返答をもらうことができ安心して治療を継続することができました。

自分の体に将来起こりそうなことを一つずつ明らかにしていくために、自分から積極的に病気や薬剤について調べ、不明・不安に感じたことは直に医師に相談すると、「治療への納得度」や「先生への信頼」につながると感じます。

高校1年生で悪性リンパ腫の再発、造血幹細胞移植の手術へ

高校へ進学したのも、つかの間、悪性リンパ腫の再発を宣告された時にどのように感じましたか?

再発したことを聞かされた時に、まず感じたのは「人生を犠牲にして大変な治療を耐えたあの1年半の苦労は無駄だった」というやり場のない怒りや悔しさでした。
その思いは「これから治療しても再発するのではないか」という恐怖の裏返しだったのかもしれません。「痛い思いや辛い思いをしないで治療を受けずに自分が好きなことをして死んだほうが幸せだ!」と乱暴な言葉で担当医や家族に感情をぶつけていたこともありました。今思うと、本当に申し訳ないです。

病気は理不尽にやってきて、自分の気持ちの納めどころを探すのはとても難しいと思いますが、「治療を受けよう」と気持ちが転換されるきっかけはありましたか?

1回目の化学療法に比べて抗がん剤の量も回数も増えましたし、1回のサイクルも長くなりました。その上、放射線治療も追加してやることになり、治療の負担が重くなったことも気持ちの切り替えを難しくしていました。また、タイミング悪く担当の先生がコロコロ変わってしまったことも大きく影響していたと思います。

結局納得できない気持ちはずっと心の中にありましたが、一つ影響を与えてくれた言葉があるとすれば、家族全員に「15,16歳で死にたいなんて、これから何があるかわからないよ。こういう病気と付き合っていくことも一つの人生。10代だけが人生じゃない。20代や30代になってからも人生があるよ。今は辛いけど、今が人生の集大成じゃない。いくらでもスタートは切れるよ。」という言葉が自分の気持ちを支えていたと思います。

治療中に担当医がかわってしまうことに対して、患者の立場からどう感じましたか?

医師も仕事なので所属がかわってしまうのは仕方のないことですし、人間なので性格も人柄も違うのも自然なことだと思います。ただ、健康であれば気にしないほど些細なことでも当時の自分はちょっとしたことで感情的になったり傷ついたりしていました。その経験から本音を言えば、「担当医がかわっても、治療説明の仕方や表現の仕方は変えずにいてほしかった」の一言に行き着くと感じます。

そんな約2年間の闘病生活でしたが、幸いにも2006年3月に母がドナーになる形で造血幹細胞移植手術を受け、無事退院してから2016年で約10年たちます。

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退院後の生活を襲った就学・通院の壁

退院後の高校生活について教えて下さい

2010年の3月に高校を卒業しました。高校三年の夏休みあけから復学した時は丸2年半学校にいけていなかったので、1回でも休むと卒業できないという切羽詰まった状態でした。そのため、風邪をひいても熱がでても具合が悪くても学校に行っていたのを覚えています。「闘病生活を乗り切ったのでだから、今は学校に行きたい!好きなことに時間を使いたい!」という気持ちが勝っていたのだと思います。

進路を決める上で困ったことはありましたか?

小児慢性疾患の場合、19歳までは医療費の自己負担分の免除制度がありますが、20歳を過ぎる通常の3割負担に戻ります。

私が退院後も受けていた免疫療法の費用は、3割負担の場合1回あたり3万円以上します。それに加えてCTや採血などの検査項目が増えると1回あたり6万円を超えることもありました。20歳から3割負担になることで、それまで週1回受けていた免疫療法を継続することが難しいと判断した私は、「治療回数を減らしたい」と医師に相談して2週間に1度に変更してもらいました。

当時、復学したばかりで資格取得や将来の進学のためにお金を貯めておきたかったので、朝4時に起きて5時から11時までアルバイトしていました。しかし稼いだお金の大半が医療費に消えていきました。体がきつくても、医療費を稼ぐためにアルバイトを休めない、高校を卒業するために学校も休めない・・・そんな生活が2年半続きとても大変でしたが無事卒業しホームヘルパーの資格を取ることができました。おかげで介護福祉士として2010年の4月から働き始めることができたのでとても有意義な体験だったと思います。

もし、20歳からの医療費負担が3割ではなく1割や2割であれば、大学や専門学校へ進学という道もあったかもしれません。でも、働きながらお金を貯めて例えば30歳になった時に「勉強がしたい、資格が取りたい」と思えばその時にだって進学や資格取得の道は残されていると考えを切り替えて今に至ります。

医療費負担の多い小児慢性疾患の患者の方が、進学や資格取得をするための助成金やサポートする仕組みができるとよいですね。

そうですね。私が所属する若年性がん患者の会「STANDUP」でも、小児慢性疾患で20歳から医療費自己負担免除がなくなることで悩んでいる人がたくさんいます。病気で中学・高校に行けていない人がほとんどですので、その巻き返しをするために資格取得や専門学校にいくとお金がかかる、でも治療も3割負担で重くのしかかってくるという医療費の壁があるのが現状です。

若年性がん患者の会「STANDUP」に参加したいと思った理由を聞かせてください。

入院や闘病生活を送った同年代がつながれることに意義を感じました。同じ境遇だからこそ抱えている悩みも共通することが多く、例えば「治療と仕事の両立の仕方」「医療費の工面」「社会復帰の方法」など、実際に体験している人から聞くことができる希少な場だと感じています。

朱 之宇さんの病院ボランティアインタビュー写真

病気の経験を生かせる仕事に就くということ

仕事を始めて新しい発見がありましたか?

目の前にいる利用者さんは80年、90年間生きて「無理に治療をして延命するよりも自然に死にたい」という死生観を持っているのに対して、私はたった16歳で「治療をしないで自分の好きなことをやって死にたい」と言っていました。当時の自分を思い返すと、「あの頃の自分はちっぽけだったな」と少し恥ずかしく感じます。利用者さんと同じ年齢になるまでまだまだ長い人生がまっていて「何があるかわからない!」と希望を見出せたように感じます。

また、病気や介護を受けている方の「食事」について興味を持ち始めました。利用者の中には持病などで食事制限がある方もいます。自分自身も入院時に食事制限を受けていたので「食べる楽しみ」を制限されるストレスがいかに大きいかを身をもって知っていました。そこで「糖尿病でも甘いものを食べれる方法がないかな?」と興味を持っていろいろ調べはじめたのが、フード関係の仕事に転職しようと思ったきっかけです。

次の職場は、フードカウンセラーの資格を生かして料理教室を主催している会社です。料理を教える経験をもとに、いつか商品開発やフードカウンセリングがしたいという夢を膨らませています。

悪性リンパ腫を経験して感じた病院ボランティアの意義

入院中に「医療従事者や家族」以外の病院ボランティアと接点があることの意味はどんなところにあるのでしょうか。

病院ボランティアの方が病院に来てくれることで家族とは違った新鮮な空気や刺激を運んできてくれます。医師や看護師さんは私のことを「患者」として接しますが、病院ボランティアさんは「一人の人間」として接してくれるのが何よりも嬉しかったですね。

若年性ガン患者やその家族が期待する病院ボランティア活動にはどのようなものがありますか?

私が悪性リンパ腫で入院していた中学・高校生の時は、「病院ボランティアの訪問回数や時間を増やして欲しい」と思っていました。でも大人になって考えると、なかなか難しい現実があることは理解できます。

なので、今の活動内容や回数を維持しながら、せめて「総合病院は統一して病院ボランティアがある」という状況になるだけでもその恩恵を受けられる方が増えていいなと思います。「この病院にはあるけど、この病院にはない」という状況が無い世の中になることを期待します。

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